起源と屋台行事(鹿沼今宮神社祭)

祭りの起こりは民衆から

 慶長十三年〔一六○八年〕三月、戦国の世が過ぎ一時荒廃していた鹿沼宿の復興は、今宮神社再建を機に始まりました。
この年は、日照りが続き、大旱魃となりました。氏子や近郷の人びとが今宮神社に集まり、雨乞いの祭りを三日三晩続けたところ、霊験あらたかに激しい雷雨がおこりました。この霊験を敬い、雨のあがった六月十九日を宵祭り、翌二十日を例祭とすることになったのが今宮の例祭の始まりと伝承されています。
 屋台は当初、氏神への奉納する踊りなどの舞台として移動できる簡単な屋根付の台でした。寛政に入り、付け祭りが盛んになるにつれ、囃子方が屋台の中に入ったこともあり、屋台をつくり替えたり、新屋台をつくる地域も出始めました。
 それまでの踊り屋台としての機能は引き継がれましたが、芸場は狭くなり、別に「踊り台」を設けて屋台の前に据え、踊りや狂言を演じるようになりました。このころから屋台は黒漆塗となり、一部を彩色し、現屋台の祖形になったと伝えられています。

大正6年 吾妻町屋台(現在の銀座一丁目屋台)

昭和36年 銀座一丁目屋台

鹿沼今宮神社祭の屋台行事

 「鹿沼今宮神社祭の屋台行事」は華麗な彫刻を施した囃子屋台が巡行するもので、風流の屋台行事のひとつの展開型を示しており、全国的な比較の観点からも貴重な行事であるとして、平成15年2月20日に国の重要無形民俗文化財に指定されました。
 その鹿沼今宮神社祭の屋台行事は、今宮神社の例祭に行われます。鹿沼市は栃木県の中西部にあって、東は宇都宮市、北は日光市と接し、近世以来日光例幣使街道の宿場町として栄えるとともに、周辺で栽培される麻の集散地として、また木工・建具生産を中心とする町として栄えてきました。今宮神社は、鹿沼市の中心部に祀られ、市内中心部34か町の氏神となっています。
 今宮神社の例祭は、10月第二土・日曜日に行われ(例外の年もあります)、氏子34か町のうち屋台を持つ27か町から毎年20台ほどの屋台が奉納されます。
 屋台は、周囲を豪華な彫刻で飾った四輪一層形式の囃子屋台で、近世後期に日光の宮大工の影響のもとに造られたと伝えられ、文化11年(1814)に造られた記録を持つものもあります。
 また、近世後期に造られた屋台の中には、日光五重塔彫物方棟梁後藤正秀や神山政五郎、後藤音吉などの彫刻師の名前が残っています。
 34か町の氏子町は上組、下組、田町下組、田町上組の四つの組に分けられ、まわり番で、祭りの当番組をつとめます。この当番組からその年の祭りの運営を取り仕切る当番町が出ますが、当番町は組内の各町が順番につとめることになっています。この他、四つの組にはそれぞれに固定した親町と呼ばれる町があり、各組内のまとめ役をつとめています。上組は久保町、下組は仲町、田町下組は中田町、田町上組は上田町が親町をつとめています。